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COLUMN

細川さんと近衛さん

update: 2004/6/14

■渡邊 行男 わたなべ・ゆきお
プロフィール:
1926年(大正15年)福岡県生まれ
明治大学文学部中退。衆議院事務局に入り、1977年より憲政記念館で憲政資料の調査・収集・展示に当る(企画調査主幹)。のち福岡県豊前市立図書館長を経て著述業。著書に『櫨生うる里』『宇垣一成』『重光葵』『中野正剛自決の謎』『秋霜の人 広田弘毅』『明治の気骨 利光鶴松伝』その他がある

 私はつきに一度、三日間だけ奥湯河原の重光葵(まもる)記念館に出かけている。JR湯河原駅からバスで終点の奥湯河原まで行き、箱根山に向かってかなりな坂道を五分歩いて左側に記念館はある。まわりは高級料理旅館で、バブルの頃は社用族でずいぶん賑わったらしい。いまは週末、中高年の夫婦づれとか、中年婦人のグループとかが利用するらしい。その人たちが記念館によく見える。

 この重光記念館は、あのミズーリ号の降伏調印式で知られる元外相重光葵の子息篤氏が父親のために私財でつくったメモリアル・ホールである。上海事変で爆弾のために隻脚となった重光が、傷の治療に戦前建てた温泉別荘を改築したものである。
バスでくる途中、温泉街をはずれた停留所の上の方に、細川護熙(もりひろ)元首相が晴耕雨読の生活をしているとかねてから知っていた。細川さんといえば、平成五年八月、日本新党を率いて斬新な内閣を起ち上げ、しかしわずか八ヶ月でつまずいたことで知られる。そして六十歳にして政界を隠退した。そのことが私にはかねてから謎であり、興味のあることでもあった。

 その細川さんが最近『不東庵日常』という本を出された。私はさっそく求めた。早すぎる政界隠退とか、細川内閣崩壊事情とか、現在の心境とかを知りたいと思った。けれどもこの本には政治のセの字も出て来ない。徹頭徹尾、作陶と本と書の本である。なるほどと思った。つまり作陶と晴耕雨読の山居の生活がすべての返答というわけである。高級逸民の生活がこの本には格調高く綴られている。中には私も共通に興味をもつ人物や本も語られている。方丈記であり、徒然草であり、良寛、芭蕉、蕪村、漱石である。

 それらは措くとして、細川さんとは多少の縁もあるな、と気づいた。まず、細川さんの父親は『細川日記』で知られる細川護貞(もりさだ)さんであり、肥後細川五十四万石の末裔であられる。目白細川家の「永青文庫」にも伺った。私は衆議院憲政記念館に十年余在職中、あちこち展示資料を探して伺い歩いた。『細川日記』は昭和史研究には欠かせない史料であり、細川護貞さんは若いころ近衛文麿、高松宮の秘書をしていたから、その日記には昭和史の秘密がいっぱい詰まっているわけである。その日記の原本を拝見するため伺った次第である。永青文庫(細川家の資料庫)の二階応接間で待っていると、はるかの樹間から下駄履きでこちらにやって来られる護貞氏を見て、こんな上等な土地に広い林のある邸宅をもつなんて大変だろうな、と妙なところで感心したものである。同じ目白には当時世間を騒がせていたかの田中角栄氏の広大な邸宅もあった。が、こちらの方は闇将軍の異名をもつほど力で財を集めた人だから、比較などできるものではない。

  近衛さんは五摂家の筆頭近衛家に生まれ、世が世なら摂政、関白になれる家柄で、いわば天皇家に最も近い間柄である。近衛文麿は昭和天皇に会うとき、椅子に坐って長い脚を組んで親しげに話し込んだという。天皇に拝謁する人は、よほどの人でない限り、直立不動で離れて御挨拶を申し上げる。特別な人に限って「椅子を賜る」。それは老齢の重臣とか重光外相のような脚の不自由な人である。近衛は「御機嫌よろしう」と申し上げ、天皇は「そちらも元気でなにより」と答えられる。

  近衛は貴族院議長から首相になり、三度内閣を組織した。何かあるとすぐ「辞める」と言い出すのが癖であった。のし上がりの政治家と違って欲がないのである。いつか、天皇に「辞めたい」申し出たところ、昭和天皇は「近衛はいいね。いつでも辞められるから」と言われた。天皇はいやになったから辞めるというわけにはいかない。そういう宿命を負っているお人だ。すぐ辞めると言い出す近衛への痛烈な皮肉ともとれる。近衛は辞意を撤回した。

 
私は在職中、京都宇多野の近衛家の資料庫である陽明文庫を三度訪問した。御室仁和寺の脇を北へ竹林の中を歩いた。陽明文庫は文麿が首相在任中に建てたコンクリート二棟の書庫で、藤原北家以来の近衛家の家宝が納められている。中には国宝藤原道長の「御堂関白日記」はじめ重文クラスの重要文書が詰まっている。私も書庫に入らせていただいた。

  その前に文庫を拝見するには近衛家の許可が必要である。文麿の二男通隆氏が東京大学の維新史研究所教授であられたから、某日訪ねて許可願の文書を差し出した。夏の暑い日で、通隆氏は父親そっくりの長身面長のゴルフ灼けした姿で現れた。資料の閲覧と特別展への出陳を依頼した。

  出陳依頼の資料は文麿の遺書と何枚かのメモである。遺書は奉書紙に鉛筆で書かれ、字は薄れて消えかけているし、折り目が綻びかけている。「遺書の貸し出しはこれで終わりにします」と学芸員のN氏が言われる。私は遺書の保存のために樹脂コーテーィングすることをすすめた。

 
遺書は通隆氏の目の前で書かれたものである。昭和二十年十二月、文麿はA級戦犯容疑者としてGHQから、巣鴨拘置所に出頭するよう命令を受けたが、出頭日の十二月十六日朝、服毒自殺を遂げているのが発見された。

 前夜から二男通隆は父の部屋で話し込んでいた。自殺の気配が周囲の者にも感じられた。それを止めることはできないと通隆も覚悟していた。午前二時ごろ、通隆は父に「何か書いておいて下さい」と言った。「ぼくの心境を書こうか」と文麿は言い、紙と鉛筆を持って来させた。

  「僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した」に始まるこの遺書は、支那事変への責任と解決の努力、そのための日米交渉に全力を尽くしたが、「その米国から今、犯罪人として指名を受けることは、誠に残念に思ふ」とし、いつの日か「神の法廷に於て正義の判決が下されよう」と自殺の理由を述べている。

  母を早く亡くされている細川氏にあって、母方の祖父である文麿の存在は大きかったはずである。政治上の意味でそうであったろうが、人生上の意味でもかなり大きかったに違いない。文章ではそういう話題にはいっさい触れていないが、現にいま暮らしている湯河原の地は、祖父そして祖母が暮らしたことのある地である。

  陽明文庫の近衛家の資料についてはこんなエピソードがある。戦後すぐのあるとき、ある人が近衛さんに「近衛さんは古い家柄だからさぞかしたくさんの家宝がおありでしょう」と話した。すると近衛さんは「いえ、戦争でだいぶ失くしました」と答える。おかしいな京都は空襲に遭っていないはずだがと思い、「空襲でですか」と訊くと、「いえ、応仁の乱です」とすまして答えたという。応仁の乱がついこの間のような時間的感覚らしく、いかにも古い家柄の実感があったとその人は言っている。

 
三度目の陽明文庫訪問のとき、用が終わってから、学芸員のN氏が「虎山荘を案内しよう」と言う。御好意である。虎山荘は茶室風の別荘というべきであろうか。竹林の中に書院造りの和風平屋がひっそりと佇んでいる。N氏はふだんは閉めたままのそこの雨戸を次々に繰り始めた。大小三つの棟つづきの茶亭である。その一室に坐っていて、N氏が急に意外なことを言い出した。

  「昭和二十年の二月、ここで近衛公、高松宮、米内海相が天皇の御退位について密議されたんです」

  私は正直自分の耳を疑った。憲政記念館の仕事上、ずいぶん多くの近代史専攻の学者に会って話しを聞いたが、当時までそんな話を耳にしたことはなかった。N氏には悪いが、私は半信半疑でN氏の話を聴いていた。

  昭和二十年二月といえば、天皇がひそかに重臣から時局についての意見を聴取された時期である。近衛はこのとき「敗戦は遺憾ながらもはや必至なりと存じ候」に始まるあの有名な近衛上奏文を差し出している。この上奏文の草稿を近衛は平河町の吉田茂邸で書き、吉田に見せた。吉田は書き損じを屑箱に捨て、それを憲兵が吉田邸に住み込ませた女中が拾い、吉田は東京憲兵隊に捕らえられ、代々木の営戒監獄に入れられるという事件を起した。

  近衛は上奏文で敗戦を前提として日本の取るべき道を示したわけだが、その延長線上で、敗戦にともない天皇の身分を守るための方策を虎山荘で密議したものという。即ち、天皇は退位し、十一歳の皇太子明仁親王が即位し、高松宮が摂政となって補佐する。天皇はこの虎山荘と地続きの御室仁和寺に入って剃髪し、近衛が虎山荘に入って天皇に仕えるつもりだったらしい。仁和寺は古くは皇族が門跡となる門跡寺院であった。

  N氏にこの話を聞いたときは、にわかには信じがたかったが、その後、仁和寺の管長がこの話を雑誌に書いているのを見て、「あれは本当だったんだ」と思い込んだわけであった。

  先日も湯河原に行ってきた。

  奥湯河原へのバスの沿道に、雨に濡れたあじさいが鮮やかであった。この谷の青葉の上の不東庵で、細川さんは昨日も今日も、作陶と晴耕雨読の日常を送っている。あるいはもう、政治について語ることはないのかもしれないと思った。

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