| ■万象氏の日記続く
五時過ぎ、突然外は霙混じりの雨になって、地表の凹凸を激しく叩く音が聞こえた。
留学生食堂の表情も一変した。
霙を避けるように、数人の黒人学生が食堂の玄関に飛び込んで来る。彼らの白い吐息と健康そうな赤い唇から見える白い歯、それに白目に浮かぶ毛細血管が映画のフラッシュ・
バックを見ている風に通り過ぎて行った。留学生の歓声がホールに充満し、そこから溢れた熱気がすでにテーブルについて食事を始めた者にまで感染し、自然の力にウキウキと対
応している自分がいた。
食券を購入する列や売店で飲料水を買う行列の中で、衣服に着いた水滴を払い落とす動作が、食堂にいつもとはちがう活気を与えていた。雨と泥の足跡で汚れはじめたコンクリ
ートの床はあっという間に足跡を飲み込んで界面張力に守られた海になった。
仲間たちの挨拶がオクターブ高く食堂に響き、そのためか別のグループからも陽気な挨 拶がかえってきたりして驚く。寒気にさらされて凍えた表情がテーブルの前でとけだし、
周りの雰囲気に和んでいくうちに声のトーンも落ち着き、その日のテーブル外交は新鮮に始まった。
今日は「コルシカ島に飛行場がありますか?」などという野暮な質問をして失笑をかうようなことはない。
今日の夕食もイタリアはミラノのアニー叔母さんと食べることになった。
「まぁっ、マンツォウ(ぼくのこと)。イタリア経済復興のことなら私よく分からないから、政治経済のことなら、あのテーブルに座っているアルベルトを紹介するわ。彼は経済振興財団の人だから、この話には最適よ」と言って、柱の影のテーブルに向かって手を挙げた。そこには少し赤みのかかった立派な顎髭のくりっとした目の紳士がいて、白いセーターを着た彼が左手を高く挙げて指を鳴らした。これがチャオの挨拶かと思った。
「ありがとう。ところでチッチョリーナはその後いかがですか?」
「えっ、何ですって? チッチョリーナ? あぁ、チッチョリーナ。それは彼女の名前ではないのよ。ねぇ、アレキサンドラ、説明して上げて」
「それはネ、小柄なグラマーで男性の嗜好をクスグルような女性という意味なの」と、同席していたアレキサンドラは周囲を意識しながら答えてくれた。
「ホッホッホ、マンツォウ、そういう意味なのよ。ところでマンツォウあなたの仕事はどう、進んでいるの?」
アニー叔母さんは、北京で花屋を経営してみたいというぼくの夢のことをいっている。
「えぇ、今度北京郊外のビニール栽培をしている農家を訪ねてみようと思っているんです。それに今度はアニー叔母さんのことを小説に書こうかなどと考えているんです」
「あら、まぁーうれしい。じゃ、中国語の次は日本語の勉強をしなければならないわね。
私の頭も年を取る暇がなくて結構なことだわ。私はネ、マンツォウ、結婚するのが遅くて三十四で今の主人と出会ったの。それで子供もいないのよ。その分夫と一緒にあっちこっち世界中を歩くことができるけどね。去年の夏のバカンスは北アフリカに行って来たわ。
主人とジープを借りて砂漠を走る計画だったの。あっ、そうそうパリ−ダカールラリー御存知? もちろんほんの一部のルートだけど砂塵の中を車で走り回る点では同じ。随分楽しい思いでができたわよ」
「中国にはどうして来ることになったのですか?」
「何ででしょうネ」
ぼくは初めて彼女の考える顔を見た。
「一番の理由は、子供の頃から父親の影響でアジアが身近だったということね。父は東南アジア史、特にタイ−ヨーロッパの文化交流史の研究家だったの。だから家にはタイの仏教寺院の写真がたくさんあって、他にもタイの象の置物だとか、中国の書家の掛け軸なんか、アジアが自然に家の中に転がっていたの。上から読むのか左から読むのか、それとも
右からなのかわからない掛け軸の文字の中から、私が12才の時、父が月という字を一つ 選んでその意味を教えてくれたわ。そうこんな餃子のような形をした月の字だったわ」
彼女は皿の中の水餃子を箸で不器用に裏返した。
「その時からね、漢字に興味を持ったのは。だって私達は26文字のアルファベットの組合せで意味を伝達するけど、漢字には最初から意味があったのよね。文字を通して意味を伝達するという抽象の過程が東洋と西洋ではちがうように感じてから、漢字を少しづつ覚えようと努力したわ。ところで、マンツォウ、私の漢字の覚え方教えてあげましょうか」
そう言ってテーブルの塩入れから塩を一掴み取ってテーブルの上にひろげて文字を書き 始めた。
「中国語でお風呂の意味の洗澡ってあるでしょ。この洗という字だけど、三水は水よね。
これはわかるから、あとね、バスタブに人が入って足を伸ばすでしょ、それが儿なの。こんな風にいちいち何かと結びつけて覚えるから大変なのよ。日本人のあなたにはこんな苦労はないでしょうけどね」
誰かがぼくの頭の奥でどこまでも繋がっている万国旗の端を持って走って行った。つまりアニー叔母さんの漢字習得の苦労話を聞いて少々気が遠くなってしまった、ということだ。
*
「ねぇ、ジョシュア、アニー叔母さん今頃元気かな。彼女フェデリコ・フェリーニの『道』っていう映画に出てくる女性に似てない?」
「あの、興行師について歩く円らな目をした小柄な女性だろう。私は最初ピノキオそっくりと思いましたね。それにしても、アニー叔母さん、あの方は強烈な個性だったですね。
中国語の四声など見事なほど出鱈目で、私が中国語を学ぶ学生だったら人前では喋れませんね、恥ずかしくて。それを堂々、あんなにアップダウンのあるしゃべり方をする人に会ったの初めてだったよ。アニーの目を見ながら、話を真剣に聞いていると自然にこっちの
頭まで上下しちゃうんだから、疲れました。それでみんな彼女と同じテーブルに座るの敬遠していたのかな? いつも万象氏がお相手してたからね」
「イタリア人は彼女に近づかなかったもんな。コモ湖のそばに住んでいるというリンランちゃんなんか、私あの叔母さん嫌いだなんて言うし」
「外人と話をする秘訣は何はさておき体力です。語学力ではありません。ねぇカプリッチオ、あのハロウィンパーティの夜のこと覚えてる?」
「あぁ、よく覚えてるさ。あの日は夜ごと全部スコップで掘り返して、イルミネーションで飾りたてたように北京の街が変わって見えたよ。ところで、君はハロウィンパーティって、意味知ってた?」
「ハロウィンとカボチャと仮装パーティの三角関係は知ってたけど、まさかあの雪の日だとはね。すっかり忘れていたよ」
「あのさージョシュア、アルフォンスのこと話さないかい。ハロウィンパーティといったらなんたってアルフォンスだもん」
*
■万象氏の日記続く
中国語の授業で家族を紹介する時間になった。アルフォンスの順番がきた。
「ぼくの家にはお父さんが一人と、お母さんが二人います。子供は全部で五人。ぼくは上から二番目で最初のお母さんから生まれました」
クラス全員が一斉に最後列に並んでいるアルフォンスを見た。
「じゃ、君のお母さん亡くなったの?」
「いや、今も一緒に住んでいる。お父さんと」
「本当? じゃ、お父さん一人にお母さん二人?」
劉先生がアルフォンスのそばで鼻の横を鉛筆で掻きながら笑っている。
「パプアニューギニアでは一夫多妻でね。だからぼくの家にはお母さんが二人いるんだ」
その日の授業が終わってから、彼は黒板に進み出て、鶏の雛のような、世界で二番目に大きいというニューギニア島の地図を書き、民族の数、使用されている言語の数、文化の風習などを英語で説明し始めた。ときどき我々の質問に答えながら、パプアニューギニア
の特別講義をしてくれた。彼は25才の外科医。首都ポートモレスビーの医科大学を出てから、シドニーで卒後研修をしたそうだ。
そのアルフォンスの行状が最近おかしいと劉先生がぼくに言った。彼女から見て、どうも最近熱心に勉強しなくなったというのだ。九月に授業が始まった頃は他の南米の学生に
比べても宿題はちゃんとやるし、予習も復習もしっかりやってきて成績も良かった、とい
うのだ。それがここのところ、授業にも身が入らないようだし、なにより気になるのは授業中そばによると酒臭いという。ぼくは彼の前に座っていて、そんなことぜんぜん気にならなかった。トロンとした目をときどきしていたのは気づいていたが。
ある日、彼は包帯をぐるぐる頭に巻いて教室に現れた。劉先生が心配してさっそくその 訳を聞いた。
「先生、昨日ぼく酔っぱらって自転車に乗っていたら、木に衝突して転んじゃったんです。それで学校の医務所に行って数針縫ってもらったんです。心配かけてすみません」
黒い顔に真っ白な包帯の痛々しい姿が一週間ほど続いた。その包帯がとれた頃、北京に初雪と一緒にハロウィンがやって来た。
*
十月三十日の夜のことだ。
万象氏はその日、アニー叔母さんを主楼で開かれるハロウィンパーティに誘った。すると、彼女は手をひらひらさせながら、白いフレームの眼鏡の奥から温厚そうな目で、その申し出をきっぱりと断った。
「マンツォウ、今日は私の出番ではないわ。この年になるとそのくらいわかるものよ」
夕食が片づいて留学生食堂の明かりが消える頃、霙は雪に変わり街灯の明かりの中で雪が風に舞っていた。
アニー叔母さんに断られた万象氏は、夕食後の時間がぽっかり空いた。彼はアルフォンスに会いに行くことにした。
五楼418号室の部屋のドアには、極楽鳥と南十字星のパプアニューギニアの国旗が貼ってあり、その隣には二枚の厚紙の真ん中をピンで留めた行動表が下げてあった。行動表の表示窓は「在室」を指していた。
部屋の中は男三人の熱気に溢れていた。アルフォンスと彼のルームメイトのギルウェ、それにパプアからの第一回国費留学生で北京大学政治学部にいる、ちょっと小柄で目がギョロリとして、いかにも力持ちで愛想のよさそうなパキタがいた。食事を作っているとこ
ろだった。
「ヘーイ! 万象! 入ってくれよ。早く早く。よく来てくれたな。歓迎するよ。俺は今最高にハッピーなんだ。万象、これ俺の友達、紹介するよ。これ、これなんだ。ビールが俺の今の恋人なんだ」
そういいながら、か細い女にするようにビール瓶を抱き締め、一度股に挟んでから、瓶に頬ずりした。彼はもうすっかり出来上がっていた。
「万象、俺は今独りなんだ。女友達がいないんだ。パプアから女来てないから女いないんだョ。ハハァーッ、だから今はこれが俺の女友達。毎晩20本飲んでるんだ。この前俺頭
に怪我したろ。先生には、自転車でころびましたッ、て言ったけどさ、本当は、こいつに酔っぱらっちゃって飛び来んじゃったんだ」と言いながら、二つのベッドの間にあるスチームを指さした。
座っていたベッドから立ち上がってスチームに倒れ込む様子を酔っぱらいながら再現してくれた。彼の厚い胸板は呼吸が荒れて波打っていた。
「先生には嘘ついちゃったけどさ。先生、最近俺のこと勉強しなくなった、て言うけど、俺の今の友達、ビールだから勉強なんかできないんだ。俺淋しいんだ。どうして勉強しなくなったか聞かれるけど、答えられないよ。ビール飲んでるからなんて言えないし・・・
・・・。万象、俺中国に来る直前、妻と二人の子供と別れて来たんだ」
彼の声のトーンが初めて低くなった。額に汗をかき、大きい鼻腔は呼吸に連動して広がったり狭まったりしていた。
万象氏はその時、アルフォンスが離婚してから北京に来たことをすでに知っていた。劉先生からそのことを聞いていたのだ。先生は彼の行動が心配になって、最近部屋を訪ねて行ったらしい。
万象氏と劉先生とアルフォンスの三人は年齢が近かったから自然に気があったのかもしれない。最初は英語で、それから中国語でなんとか意思疎通ができるようになると、中国語だけで話をするようになった。もし劉先生に妹がいれば紹介してほしいとか、昨日は木
曜日で寮のシャワーが休みなので、街の銭湯に行って、服務員のおじさんに垢を擦ってもらって、ついでに爪まで切ってもらった話や、バスの停留所で、バスが動き出す寸前四十才くらいの男性が正面からバスに乗ろうと走ってきたのに、女車掌が男の目の前でドアを
閉めて動き出したら、男が怒って道路に落ちていたアルミニウム缶を車掌目がけて投げ突けた話など、街で見聞きしたことを興奮しながら話をした。まるで子供が母親に今日の出来事を報告するような雰囲気だった。
彼らはアルフォンスのルームメイトが料理してくれたパプア・スタイルの夕食を一緒に食べた。夕食を済ませてきた万象氏には量が多すぎた。
「万象、俺たちは学生時代に結婚したんだ。パプアでは学生結婚はよくあることさ。そして医学部を卒業する頃には一人目の子供が生まれた。そうそう写真を見せてあげるよ」
そういいながら大学の卒業証書と子供の写真を机の引き出しから出してきて見せてくれた。その子はテーブルにちょこんと座って、まん丸い真っ黒な瞳でこちらを覗き込むようにして写っていた。
「北京に来る少し前から、食事の時、俺この子にビールを飲まし始めたんだ。すると妻が怒ってね。子供からコップを取り上げるんだ。するとさ、おっきな声で泣きわめいて食事どころじゃなくなっちゃうんだ。それから、もう一人男の子が生まれた。今、上が三才で下が八ヵ月かな」
万象氏が離婚の理由を聞き出せないでいると、彼から話始めてくれた。
「この前授業で、俺の国は一夫多妻制だって話をしたよな。俺は彼女と結婚する前から交際していた女がいた。その女をいずれ第二夫人にしようと考えていた。それが、彼女には許せなかったらしいね。俺たちは毎日のように喧嘩した。最近さすがに一夫多妻制を見直す動きがあって、前よりは少なくなったことは事実だけど、田舎にはまだまだ風習として根強く残ってるんだ。例えば村に第一夫人がいて、街の家には第二夫人がいる。やっぱり金のある男には女が何人も寄ってくるんだ」
「アルフォンス、君たちはクリスチャンかい?」
「そうさ。まぁ、それも問題なんだけど」
窓の明かりを通して見た外は白い世界に変わり、電信柱の電球の傘に雪がもう5ルほど積もっていた。
万象氏は無性に雪道を歩きたくなって、彼をハロウィンパーティに誘ってみた。彼にしてみれば雪は初めての体験だろうし、万象氏にしても北京の雪は初めてだから。
*
アルフォンスはアフリカ人達と一緒に五楼に住んでいた。各部屋から人の話声や哄笑が聞こえ、レゲエミュージックやアップテンポのリズムが廊下に溢れ出し、そこに体臭が混じり合って独特の雰囲気を醸し出していた。彼らの膚の色にも違いはいろいろあって、イ
カの墨のような黒や、ニスを塗ったように光沢のある黒とか、太陽光を吸収し過ぎて茶黒くくすんだ黒もある。ぼくの若い友人によると、黒人には四種類の黒があって、その色によって悪い黒人、いい黒人の区別がつくらしい。そんなことを言って笑わせてくれた奴がいた。その大別法を忘れてしまったのが残念だ。
「ジョシュア、僕もその若い友人て知ってるよ。Dr. 左右田のグッバイパーティーで、度重なる隣室の住人の抗議に腹を立てて中国製2B弾を隣室に投げ込んだ少年でしょ。彼が黒人四大別法を教えてくれたんだよネ」
「私が日本にいる時は、黒人は比較対象のない一種類としての黒人しか考えられなかったけど、北京の学校に来て在校生の四分の一が黒人という環境にいると、さすがにその違いにも敏感になったよ。やけにお洒落な国もあって、背広を着てお出かけの時などは、その
恰好のいいセンスと革靴の眩しさに振り返ってしまうほどで、思わずどこへ行くのって聞いたら、大使館だって教えてくれたりして」
「僕もそういう経験ならあるよ。一度なんか男女を含めて摩天楼のように背の高い集団が五楼の前で車から降りてきたのを見たことがあってね。今さっき北京に到着した様子で学校に着いて部屋が割り当てられるまで辺りを見回しているという風情なんだ。帽子を被っ
た女性が頬に手を置いたり、額に手をあてて遠くを眺める様子などは、なんとも人間離れしているんだよ。それがなんか完全に時間というものを超越した存在という風なんだ。まるで優雅でシックな宇宙人に出会ったような気分さ。僕はすっかり感激してしまった。い
つの間にか自分もアフリカの草原に立っているような、以前にこんな経験をどこかでしたような甘い一瞬だった。彼らの側を通り過ぎるときも何となく吸い寄せられるように近づいてしまい、宇宙人かどうか確かめたくて何語を話すのか耳をそばたてて素通りしたこと
があるよ」
「彼女達を見ていて思ったんだけど、黒人の女性の変わり身の早さは実はあの髪の毛に隠されている、と睨んで観察を続けたんだ。黒人女性の顔を覚えようとする場合、ヘアースタイルに騙されているうちは顔を覚えられないというのが結論だね。その髪の毛の不思議
さに私と同じ疑問を抱いて、ある日シャワー室で仲良くなった黒人女性に質問をした日本女性がいた。その日本女性から聞き質したんだけど、彼女達の髪の毛はまさしく自由自在に変化させることができるって言うんだ。ある時は奈良の大仏様のようなスタイルをして
いるとこちらが勝手に思い込んでいると、ある日突然ヤニックノア選手のような髪の毛で登場することがある。逆毛なんて御手の物、前部に人参の葉っぱを植え、後部では地下茎の植物を育てることも可能らしい。右側には海の波、左側には風にはためく国旗も可能だ
。そんな基本形にリボンとか何とかをつけて授業に出てくるのだから、表に回って顔を確かめたくなっちゃうよ」
「でも、彼女達を見ていて悲しいと感じることもあるんだ。掛け布団を二人分くらい平気で持てちゃいそうな元気で快活な女性も多いんだけど、全然精気の無い女性もこれまたたくさんいるんだよ。DNA遺伝子の配列にあらかじめ問題があったような、あるいは幼児期に飢饉に遭遇して、外側はなんとか体裁を保つところまでは成長したが、感情だけは昔のままで虚ろに一点だけ見つめてしまうという癖が治っていないのだ、などと失礼かなと思いながらも感じてしまうこともあるよ」
*
五楼の一階の廊下は水浸しになっていた。だれかが廊下に雪球を投げ入れたらしい。それがシャワー室の蒸気で融けて滑りやすくなっている。蒸気で充満した廊下を手探りで歩いて外に出ると、各楼に通じる道が何本かできていた。
アルフォンスは、「旅の友」と日本語で書かれた中国製の黄色いナップザックにビール瓶を五、六本忍ばせてガチャガチャさせながら歩き始めた。万象氏が彼を見守るように後に続く。
水分量の多い重そうな十月の雪が、留学生楼の色とりどりのカーテンが掛かる窓に映し出されて舞い落ちてくる。赤いカーテンのエジプト、緑色の地に鶴の模様のアメリカ、ピンク色のポルトガル、等々・・・・・・。そのカーテンの奥に住む留学生の心にそれぞれの思いでの雪を降らせながら、初雪は北京の街を静かに変えていく。この降り方だと当分やみそうにない。
「アルフォンス、雪は初めてかい?」
「そうさ、初めてさ。北京での経験はなーんでも初めてなんだ。おーっ、ファンタスティック」
彼は降ってくる雪片のいくつかを食べようとして口をパクパクしている。彼の心は雪を見て躍った。白銀灯の下で人の歩いた跡が銀紙に包まれた板チョコのようにデコボコしている。フェンス沿いにテニスコートの横を通ってグランドに面した広い通りに出た。万象氏は、向こうから歩いてくる中国人女子学生二人にパーティ会場の主楼の場所を確認した。中国の南方からやってきて雪をみるのは初めてという女の子達の声は寒さで凍えていたが、ほっぺたの皮膚のようにピーンと張った澄んだ声で主楼への道を親切に教えてくれた
。
繙I'm singin'in in the rain, just singin'in in
the rain.
What a glorious feeling I'm happy again, I'm laughing
at clouds so dark up above, The sun's in my heart and
I've ready for love.
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・」
アルフォンスが急に歌い始めた。花壇の石に登って木につかまり左手には雨傘のかわりにビール瓶を持って、空を仰ぎ見ながら大声で歌っているのだ。
英語科の女の子達は歌の意味がわかったらしく弾けるように笑いながら、「雨じゃなくて雪なのにね。でもこれ映画の歌だったわね」などと言い合いながらアルフォンスの一人舞台を万象氏と三人で楽しんだ。石の上でビールをラッパ飲みする彼の長い睫毛にも雪が降った。
前略 北京のジーン・ケリー様
雨が霙になりそして雪にかわるのも人生ですね
今度は昼間の明るい時に再会しよう、と別れ際に挨拶してから二人の女子学生にさよならを言い、ビールと雪に酔ってしまったアルフォンスを万象氏が抱き抱えて歩きだすと、その二人の横を山高帽子に円錐状の鼻をつけてダンボールから足と手を出した男が通り過ぎようとしている。足はカラーストッキングだ。不意に背後から追い越して、二人に挨拶する異様な人物に驚いた万象氏が、段々体重が重くのしかかってきたアルフォンスに言った。
「アルフォンス、皆な仮装してるよ。俺達も仮装しないとやっぱり駄目かな?」
「ノーッ、万象! 俺は変装している。俺はアルフォンスじゃない。スノウマンだ」
「アルフォンス、しっかりしてくれよ。酔っぱらっちゃ駄目だよ」
「大丈夫っ、酔っちゃいないよ。その証拠に俺達は裸でラインダンスをやるんだ。後からギルウェもパキタもやって来るし、それに万象お前だっているんだからナ」
深い闇の奥まで続く鈴懸の並木道の街灯の下から突然シンデレラ姫とセサミ・ストリートに登場するクッキーモンスターに似た人物が現れて、二人の方に近づいてくる。途中で山高帽子と慇懃に挨拶を交わしている。万象氏は急にハロウィンパーティが東洋人に縁のない行事に思えて、これはおとなしく部屋に戻った方かいいんじゃないかと躊躇した。しかし、突発的好奇心に従順に生きる、という万象氏の人生選択の際の基本的態度は、パーティに行くよう促した。
自分の二倍はありそうな腕を抱えて歩きながら、万象氏はアルフォンスが部屋のスチームに飛び込んだ事件のことを考えた繙広大なアジア大陸の心臓部北京で、これまで見たこともないような文字に取り囲まれて生きる彼らの困難は、日本人の直面するそれとは
意味が全然ちがうのではなかろうか。アルフォンスの友人ピジーは数カ月の北京生活の後、精神に失調を来して強制送還された。彼は寡黙で優しい男だった。皆で酒を飲んでいてもけっして目立つ方ではないが、最後の後片付けまで残って手伝ってくれる男だった。彼は中国に漁業の勉強に来ていた。マグロ、カツオなど魚の名前のほかにも片言の専門用語を日本語で知っていて、「万象さん、私は中国での勉強が終わったら日本に行きたいです
。そして高度な漁業技術を学びたいのです」と、ときどき万象氏に熱っぽく語っていたことがある。
そのピジーが酒を飲んでは暴れるようになった。万象氏が最後に彼の声を聞いたのは、フィジーから来た女性ケイサの部屋のパーティに呼ばれて行った時のことだ。食事も終わって皆で談笑していると、廊下で酒に酔って騒いでいる男の声がした。皆すぐにその声が
誰かはすぐにわかったらしく目配せなどをしていたが、万象氏には事情が飲み込めなかった。パキタとケイサが廊下に出て声の主を宥めにかかった。万象氏も廊下に出ようとすると、アルフォンスが手で制止しながら、「ピジー」と言った。万象氏はそれまでピジーの
ことをすっかり忘れていた。きょうのパーティに参加していなかったことも、しばらく顔を合わせていなかったことも。何か特別な事情がありそうだ。
アルフォンスのように、留学中に数回どこかにダイビングしなければ心の平静は保てないのだろうか。彼らにとって中国での一年は、台風の増水でもなければ流れることのない淀んだ川の淵で生活することを意味しているのかもしれない。校内には長期の他に短期留学生が三ヶ月ほどのローティションで変わっていく日本人がいつもひしめいていて、授業以外には日本語で生活できるような環境にいる日本と彼らでは、推察能力を越える不均衡が彼らにあるのだろう。
中国に居る日本人にはどこか余裕がある。嫌になれば隣国に帰ればよいという単純な思いと、欲求不満をどこかにアクセスできるという経済的背景が日本人にはある。持たざる
者は精神の失調を天秤量りの片方に置いていつも身を晒しておかなければならない。もちろん日本人の中にも情緒不安定で途中帰国する者もいるが、彼らはそうなってもすぐには帰国できない。彼らの孤独は何処で爆発するのだろうか。いくつかの彼らの不審な行動に
関する噂も真実味を増してくる。
パーティー会場は山手線の午前八時の状況を呈していた。同一種の細胞融合のように、ぼくたちは会場の踊る触手に取り込まれた。音楽と奇声と光線の入り乱れるなかでクラスメートや知り合いに目で合図を送り片手を上げて挨拶をした。会場はオズの魔法使い風、各国の民族衣装風、地元チャイナ服風の衣装を身に纏った連中が踊りに加わるチャンスを伺っている。アルフォンスはおどけた少年のようにくるくる目を動かせながら、会場の隅でビールをラッパ飲みして景気をつけている。ギルウェとパキタが厚い胸で人の波を掻き分けながら二人のそばにやって来た。
「ワッハッハッハ、来た来た来たゾー、万象! 一緒に踊るぞーっ!」
赤、黄、青、緑色が忙しく点滅する飾り電球のかかった木の影にトランクス以外のすべてを脱ぎ捨てて、会場の縦横斜めに人の隙間を縫って裸ダンスを御披露することになった。踊りはけっして華麗ではなかった。むしろ相撲やラグビーと縁戚関係にあるといってもいいほど逞しい踊りだった。栓を抜いた炭酸水のように、汗をかくにつれて気恥ずかしさが抜けていった。アルフォンスの身体にも汗が吹き出し、ショーケースのダイヤモンドを思わせる雫が黒い皮膚の上を走り落ち輝いて消えた。
裸踊りから解放されて外に出たのは十一時を回っていた。雪はまだ降っている。グランドに出た。アルフォンスはもう酔いから覚めていた。
「万象、雪ってきれいだナ。俺、今までパプア山系の氷河を遠くから眺めたことしかなかったけど、こうして雪に包まれた街に立ってみると素敵だな。北京が生き返ったような感じだよ」
「うん、ぼくも雪ってすごく好きなんだ。特に初雪の降った翌日の朝がいちばん好きだ。
朝起きるのが待ち遠しくてね。学校に行くときなんか、真っ白い雪が朝日に反射して目に滲みるんだよ。眩しくて自分の気持ちまでが雪に見透かされているようで気恥ずかしくなってしまう。街が白一色に様変わりするのが子供心に嬉しくてさ、マジックを見てるみたいだろ」
「うん、こんな広大なマジック初めて経験したよ」
「ぼくは日本の北海道という所で生まれたんだ。そこはとてもたくさん雪が降るところでね。半年も雪に閉じ込められる街に住んでいたことがあった。そこの生活はとてもきついんだけど、雪の季節になると街全体が雪のシェルターに包まれているような不思議な安心感があるんだ。日本にこんな雪を歌った詩がある。
太郎の屋根に雪降りつむ
次郎の屋根に雪降りつむ
太郎を眠らせ
次郎を眠らせ
アルフォンス、この詩の意味何となくわかるかい?」
「たくさん降り積もった雪のように、豊かな愛情と時間に包まれて育つ日本の少年の詩だね。パプアのアルフォンスも雪じゃないけど、雨の中でいい少年に育ったよ」
「もちろんさ、アルフォンス」
「でも、今の少年達は雪の降る音を聞きながら、静かに眠ることができるのかな。近頃の地球は少々騒がしいぜ。俺の国だって最近は忙しいんだ。魚や木を追いかけて万象の国から人が来るようになってからさ」アルフォンスがウィンクをして見せた。
「God bless on earth! (地球に幸あれ!)」
「万象、俺にスノウマンの作り方教えてくれよ。雪だるま作るの小さい頃からの夢だったんだ。これまで雪だるまは本の中にしかいないと思っていたからね」
「オッケー。雪だるまを作るのは簡単さ」
「できれば顔は俺の顔に似せて作って欲しいんだ。明日の朝、写真を撮って国に送りたいから」
「よしアーチスト・万象が腕によりをかけて作ってあげるよ」
雪はまだ降っている。下半身を三角錐にして頭部が球の変則雪だるまを、がらんとしたグランドの真ん中に作った。
翌朝、ぼくたちは顔に立体感を出すために野菜を持ち寄って顔を作り始めた。左目が人参、右目がジャガイモ、口にはトマトで鼻は無く、耳にピーマンをつけた。右手にWELCOME
とかかれた万国旗と、左手には柄の長いほうきを持たせて、頭に麦藁帽子を被せた。
太平洋諸島諸氏が集まってヴェジタブル・スノウマンの前で写真を撮っていると、それにアフリカ勢の列が並んだ。万象氏は36枚撮りのフィルムを二本使った。
続く
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